認識欲求と利権がらみの産物の価値

 

認識欲求が強いまま四十代を迎えちゃって、今さら変わるのってほぼ不可能なんじゃ・・

 

ってか思うんですが。

 

できて当たり前なんて誰も思ってないよ

 

って言われても

 

できない自分を放っておけないんだよね。

 

ところで、権力者の利権がらみの産物に(世の中の文化財はほとんどそう)、僕ら(というのは壁にぶつかって割れる卵)にとってなんぼの価値があるんでしょうか?

 

 

失業中なら

 

失業中ならぜいたくは言わないだろう。

 

まずは定職に就きたい、そしてまい月決まったお給料をもらいたい。

 

少し余裕が出てきたら、欲しいものを買いたい。

 

その仕事の中でそれなりの地位を得て、やりがいも感じたい。

 

そう思うだろう。

 

だけどいまの会社で10年以上。

 

とても小さい会社だけどそれなりの役職にも就いて収入も安定した。

 

将来性はと訊かれると決して安泰ではないけれど、

 

仕事のなかった30歳のころの僕からしてみれば僥倖だ。

 

当時のこころもちには戻れない。

 

自ら選んで失ったものも少なくない。

 

その爪痕は今も残っていて、夢でうなされることもしばしばだ。

 

僕はどこからきてどこへいくのだろう。

 

有限な人生の中で、A地点とB地点を行ったり来たり。

 

今はB地点だけど、いつA地点にもどるかもわからない。

 

C地点はどこだ。

 

まじめに仕事するのはみっともないって?

 

本当にやりたいことが見つかるひとはそんなに多くはいない

 

見つかるとしても時間がかかる

 

それまでの間、まじめに働くことで「効率よく自己を燃焼」させるトレーニングをしておくのは

 

みっともなくも、恥ずかしくも、無駄でもない

 

むしろ脇目もふらずにそうやって歩む姿は素敵だ

 

私はそれを信じて疑いません

雨の月曜日、ピアノは鳴らない

 

自分の心はなんと言っているのか、すこし立ち止まってもう一度考えてみる

 

母は軽自動車で、ぼくを10キロ以上はなれたピアノ教室まで送り迎えする

 

月曜日の夕暮れ

 

 

誰もが必至だった

 

だからぜんぶ許せる

 

雨の日だった

 

車を降りるときに小銭をもらって

 

迎えを待つあいだに川向こうのわりと遅くまで開いている商店で

 

おかしを買って待っていた

 

 

なにもかもが許される

 

だれもがその時を生きていた

 

ぼくはピアノが嫌いだったから

 

その商店でおかしを買うのを

 

毎週月曜日に、ピアノ教室に行く理由にしていた

 

理想の部下

 

業務品質の向上がQuality of Lifeをも向上させる、という考え方をいささかなりとも持っている

 

不平不満<アウトプット

 

上司との関係や待遇を定点観測できる

 

仕事はさまざまな視点から考えることができる

 

失敗はすぐに言ってくれる

 

人間関係力をもっている

 

仕事をするうえでの内面・外見上の清潔感を大切にしてくれる

 

メールの宛先を厳選できる

 

パーソナルブランディングの志がある

 

周囲との距離をはかる物差しをもっている

 

残業自慢・忙しいさ自慢の仕方を心得ている

 

そして、営業なので売る(付加価値に見合った価格で売る)ことを心得ている

 

・・・贅沢でしょうか

 

ファーザー・ビルド

 

入組んだ湾に面して建つ真っ白な建造物。

 

すごいスピードでいく雲。

 

時折見える、ひやあつの青空と太陽。

 

台風一過。

 

資本投下によってビルドされた絶対的「静」の保養施設。

 

人知を超えたネイチャーが生み出すひとときとして同じ形をしていない雲。

 

あの保養施設はまるで僕の父がつくったみたいだ。

 

荷造りを終わらせてカウチに座り、湾の向こう側に立つ別棟をずっと見ていた。

 

かすかな黒ずみで縁取られた、一切の黄色味を排除した絶対的な白。

 

あれはきっと、あのころの父があのころの僕のために作ってくれたものだ。

 

雲がすさまじいスピードで流れていた。建物は絶対的「静」のままだ。

 

めをこらしてみるのはみな白。

 

でもその「動」と「静」のコントラストはずしりとしている。

 

出発の時間だ。

 

Beat the boat

 

追い越すんだ今を。

 

いつまでも何かに囚われていてはいけない。

 

人生は一度だ。そして思っているよりも短い。

 

肉体は現在に存在し、思考はいつまでもあの頃を彷徨っている。

 

今に追いつけないままで君がこの世を去るとき、君が愛した人はかわいそうだ。

 

今や君は、ギャッビーの言葉を知っているだろう。

 

「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。

流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」

 

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.

 

だけど、はたしてそう言い切れるのだろうか?

 

捨てられずにいた積み荷を、そうも簡単に投げ出せるだろうか。

 

僕が投げだした積み荷の中には、なんの役にもたたないけれどずっと肌身離さずもっておかなければならないものが、たくさんあるだろう。

 

絶え間なく過去へと押し戻される、あるいは何かに囚われる。

 

それがいけないというのか。