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固い殻を砕く

 

ダークサイドを書こう。

 

よっちゃんが生まれてきたことは、僕にとっては、これまで守ってきた自分のペースの穏やかな生活にとって、ある意味では脅威に近い。

 

だけど、”今のところ”、僕の心の殻を砕くほどの力はない。

僕の心は、それを力任せに跳ね返している。

もちろん、そのちからは目に見えないところで働いている。

力任せに、と言ったのは、結果的にそれをうまく表現することが今はできないから。

その証拠に、僕は彼の命を慈しみ、彼を愛している。

 

言い換えると、僕の心とよっちゃんの存在は調和できずにいる。

雨が地表にしみ込むようにはいかない。だから僕の心は芽を出さないでいる。

 

よっちゃんの存在は、いつか僕にとってもっと強い力を持つだろう。

僕がこのまま殻を強くし続ければし続けるほど、砕かれたときの衝撃は大きい。

そして、言うまでもなく、よっちゃんは育っていく。

僕はその突然の衝撃に耐えられるだろうか。

あるいは、破壊されてしまうのだろうか。

 

殻が無残に砕かれた時、生身の僕はとても耐えられないだろう。

 

僕が置かれている状況は、数百年の歴史の中で作家たちが語ってきた壁とそれにあたって砕ける生卵の物語とは、直接の関係はない。

 

だけど、僕を覆う殻はまぎれもない”壁”であり、

よっちゃんの存在や、生まれて数ヶ月も今彼が僕に投げかける微笑みはまぎれもない生卵だ。

 

この関係性(もしくはメタファー)を文章として整理するのは、

また今度の機会にしなければならない。もうすぐ始業だ。

 

もしかしたらなんの関係もないかもしれないそれらの事柄を、

僕はもう少し深く考えてみる価値があると信じている。

 

僕をこの世につなぎとめる、今のところ唯一の手段だから。

 

44年後

 

いま僕が思うように、やがてよっちゃんも未来を憂い、巡り会う家族を愛し、なにかを失うことを恐れ、世界が悲しみで満ちていることに絶望するのか。

 

よっちゃんがいることで未来はつながり、彼は僕の未来に対する期待を受け止め、僕がそうだったように歩き始める。

 

僕が小学校に入学したとき、すべてはまっさらに新しかった。

 

学生服を買ったお店でもらったおまけは、小さなホワイトボードと水性ペンのセットだった。

 

嬉しくて坂を上がり、道路に座って東に見える山と海を描いてみた。実際に描いたかどうかはよく覚えていない。覚えているのは、真新しい水性ペンのインクの匂いと、小さなホワイトボードが真四角ではなかったこと、そして、萌える新緑の香りだけだ。僕は、あのときの僕自身をすぐ後ろから見ていた。そしていまも。

 

とにかく、何もかもが輝いてまっさらに新しい季節だった。

 

母は、父は、人々は、何を思っていたのだろう。父になった僕は今何を思うか、僕自身に問うてみたが答えはない。

 

眩しかった時間が、僕の影をよりいっそう濃く彩っただけだ。

はざまの心

 

僕の人生にはふたつの選択肢があった。

 

よっちゃんがいる人生と、そうではない人生。

 

このふたつは、容易にくらべることができないが、選択しなかったほうの人生がどんなものだったはずなのかは、完璧ではないにせよ想像することができる。それは、ついこのあいだまでの8年間を思い浮かべればよいからだ。

 

いや、単純にそうとも言い切れないだろう。僕は年を取り続けている。一年前と何もかもが同じという訳にはいかないから。

 

いずれにしても、だいたいの見当はつくということだ。

 

よっちゃんがいない人生は、僕をおちつかなくさせた。

そして今、よっちゃんがいる人生はどうだろう。やはり僕はおちつかない。焦燥感だろうか、そわそわしているだけだろうか。

 

いまはまだ、よっちゃんのいる人生に慣れていないんだろう、と思う。僕の人生に入ってきてたった3ヶ月だけだから。

 

ふだん一緒にいる分には、心を揺さぶられるようなことはない。すぐそこにいて、存在がわかって、手を伸ばせば触れることができるから。

 

一緒にいられないときに写真を見るのは違う。それも、だれかが撮った写真ではだめで、自分で撮った写真を見たときだけが違うのだ。僕は決して写真を撮るのが上手な方ではない。

しかし、自分が撮った写真を通すと、しがらみや暗さや嫉妬や虚栄のない小さな小さな場所に生まれ、僕の人生に新たに関わりをもったひとりの小さな命として、笑っているよっちゃんの姿が見えるのだ。

 

僕はさっきまで、会社の自分の席に座って、同僚よりも1時間半早く仕事を始めていた。そしてふと、携帯電話に保存されている何枚かのよっちゃんの写真をめくってみた。そこには、そんなひとつの新しい命が無邪気に笑っていた。ぼくは、彼がいなかった人生も想像することができる。よっちゃんがいない人生なんて考えられない、とは思わない。なぜなら、それが僕の過ごしてきた人生だったから。僕は、その両方の人生を良く知っている。そんな時間が長かったから、よっちゃんのいる人生に慣れるまで時間がかかるのは当然だ。

 

だから今はあまり深刻に考えないようにしよう。だけど、慣れないからこそ感じる何かからも目を逸らさないように、少しだけ考えておこう。

 

そこに笑っている命の火が、僕がこの世からいなくなってからもずっと灯り続けるように、こころから願おう。

 

本来人の命や人生は、他人がそんな期待をするべきものではないはずだ。だけど、よっちゃんに触れられない場所から彼のことを想うとき、僕はそういう気持ちにならずにはいられない。

 

 

 

 

 

この季節の夕方

 

夕方、新緑をふくんで少し湿った風がやけに鼻にとおるこの季節は、高校生の頃の部活動にタイムスリップできる。

 

僕は、44歳になった今でも、16歳のころの部活の練習の最後が終わろうとしている光景の中にいる。

 

俄にけたたましくなる蛙の声、日没で見えなくなってきた灰色のボールをラケットが撫でる「ヒン」という感触、そしてかすかに漂うガットやグリップの匂いを、今起こっていることのように思い出せる。

 

100%ではないにせよ、それらがその時、そこに存在した痕跡のようなものを僕の体や心に残している。そして、行こうと思えばすぐにそこに行ける。なぜその場面なのか、そこに何を置いてきたのかは、わからない。

 

あれから28年の歳月が流れた。残念ながら僕は何も変わっていない。少し几帳面になって、少し言葉と行動を慎むようになって、そしてあのころのお小遣いよりは少し多く自分でお金を稼ぐようになっていて、自転車が車にかわっただけだ。(そして結婚している)

 

負けないことを強く求めたが、強くなることの努力はしただろうか。今思えば、16歳の僕は、宇部のコートで第1シードから2ゲームとった16歳の僕に、果たして勝てただろうか。

 

僕の心はすぐにでもあそこへいける。それはすぐそこにある。

もう繰り返したくないけれど、繰り返さなくていいからこそ思い出せる、あのみずみずしい夜の季節。初夏、梅雨入りまえ。

 

僕は、あのころの僕自身や、夕暮れや、遠くでボールを打った音、雨の予感、人々のすべてを、今も愛している。

 

そうか、僕が高校の入学式に立った同じときに、弟は中学生になったのだ。

 

引退した受験生のおまえを何日も遠征先においておくわけにはいかんのだ、と、今思えば寂しそうに言われて、急きょ泊まったユースホステルを出て下関からひとり電車で帰ったのは三年の秋だのはずだった。雨で順延になったテニスコートは、古いコンクリートのスタンドが黒く濡れていた。夕方だった。ブルーハーツを聴いていた。何かを探して歩いた。

 

その先にはいつも、いきりたった5月の日差しで火照った僕らを、群青色にひたひたとやさしく包む暗闇があった。

 

自分の仕事に未来がない

 

と断定的に書いてしまいましたが、まあ、その通りです。

 

35~40歳までは、若いころより少しお給料が増えたのと、社内での立場が少し変わったため、いわば勘違いをしてしまって、経済的にも精神的にも、先の先まで考えるのを後回しにしていました。いや、後回しという意識すらなく、もう再考しないでよいものとして、どこかへ“しまって”いました。

 

ところが、40歳をすぎると劇的に(悪いほうに)変化しました。世の中のありとあらゆることが心配になりまして。なにが言いたいかというと、自分の限界が見えそうになって悪あがきを始めた、ということです。

 

今の仕事をリタイアするまで続けたとして、果たしてやりがいを感じられるのか、自尊心を保てるのか、経済的には大丈夫か、など、価値観の変化とともに心配ごとが増えてきたわけです。

 

自分には、昔から誰にも言わずに夢見てきた職業が、いくつかあります。その中でも最もやりたいことに対する準備というのを、今になってやっと(少しづつですが)始めました。しかし、遅々として進みません。

 

こういった不安や夢について語り合える相手がいればよいのに、と思うようになりました。もちろん、酒のつまみのような話を期待しているわけではありません。

 

万能感と焦燥感と諦観が、入れ替わりで訪れます。

 

僕は心が強い(鈍感)みたいで、精神的に参って生活に支障をきたすまでにはなっていません。しかし、そういうことを考えてしまう事で、人生を少しずつ蝕まれている、残された時間を無駄にしている、という実感はあります。

 

こうやって文章にしただけで解決した気分になってはいけない、今やろうとしていることを地道に(愚直に?良い言葉が見つかりません)続け、“ただくよくよするだけでなにも生まない”という時間と決別するしかないと思っています。

 

自分の力を信じることが何よりも大切なんだと思います。

 

日曜の夜の洗濯

 

自分のお気に入りのカットソーとタンクトップ、それから、仕事用に買った下ろしたてのソックスを洗濯かごから選り分け、ホームクリーニング用洗剤を使って洗濯機をソフトに設定して洗った。干すのは二階の一室で、乾燥機のタイマーは6時間に設定した。夜中の娯楽的な洗濯だ。

 

カットソーは、チョコミントのアイスクリームのような柄で、タンクトップはグレー。ソックスは、薄い茶色に模様が入っている。

 

自分の大切にしている衣類が愛しい。全部、ホームクリーニング用洗剤で洗いたい。洗えばいいとも思う。そもそも、ホームクリーニングとは名ばかりで、その洗剤を使うこと以外はよく知らない。少し勉強だ。

 

 

今読んでいる超長編小説の第六巻を、楽天ブックスで注文した。火曜には届くようだ。送料のかかる古本より、送料無料の新品の方が安い。

 

読んでばかりではなく、書く方も進めなければいけないと思った。

 

4月15日の食生活

朝はいつも通りオムレツを作り、車で往復1時間もかかるパン屋で先週仕入れて、冷凍しておいたパンを焼く。

 

間違えて無塩バターを買ってしまったため、メープルシロップと一緒にパンに塗ると、どうもお菓子のようなぼやんとした甘さになってしまった。

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昼は、買い物がてらそのパン屋で一週間分のパンを買ったついでに仕入れた惣菜パン三種を奥さんと分ける。今日は緑ものが挟まれたパンが売り切れていたので、冷蔵庫にあったサニーレタスを添えた。

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夜は、奥さんが作った鶏水炊き風。これだけは贅沢した、馬路村のポン酢でいただいた。普通のポン酢の2倍の値段だったが、昔よく泊まった山間の温泉地を応援するつもりで買った。

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