読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

はざまの心

 

僕の人生にはふたつの選択肢があった。

 

よっちゃんがいる人生と、そうではない人生。

 

このふたつは、容易にくらべることができないが、選択しなかったほうの人生がどんなものだったはずなのかは、完璧ではないにせよ想像することができる。それは、ついこのあいだまでの8年間を思い浮かべればよいからだ。

 

いや、単純にそうとも言い切れないだろう。僕は年を取り続けている。一年前と何もかもが同じという訳にはいかないから。

 

いずれにしても、だいたいの見当はつくということだ。

 

よっちゃんがいない人生は、僕をおちつかなくさせた。

そして今、よっちゃんがいる人生はどうだろう。やはり僕はおちつかない。焦燥感だろうか、そわそわしているだけだろうか。

 

いまはまだ、よっちゃんのいる人生に慣れていないんだろう、と思う。僕の人生に入ってきてたった3ヶ月だけだから。

 

ふだん一緒にいる分には、心を揺さぶられるようなことはない。すぐそこにいて、存在がわかって、手を伸ばせば触れることができるから。

 

一緒にいられないときに写真を見るのは違う。それも、だれかが撮った写真ではだめで、自分で撮った写真を見たときだけが違うのだ。僕は決して写真を撮るのが上手な方ではない。

しかし、自分が撮った写真を通すと、しがらみや暗さや嫉妬や虚栄のない小さな小さな場所に生まれ、僕の人生に新たに関わりをもったひとりの小さな命として、笑っているよっちゃんの姿が見えるのだ。

 

僕はさっきまで、会社の自分の席に座って、同僚よりも1時間半早く仕事を始めていた。そしてふと、携帯電話に保存されている何枚かのよっちゃんの写真をめくってみた。そこには、そんなひとつの新しい命が無邪気に笑っていた。ぼくは、彼がいなかった人生も想像することができる。よっちゃんがいない人生なんて考えられない、とは思わない。なぜなら、それが僕の過ごしてきた人生だったから。僕は、その両方の人生を良く知っている。そんな時間が長かったから、よっちゃんのいる人生に慣れるまで時間がかかるのは当然だ。

 

だから今はあまり深刻に考えないようにしよう。だけど、慣れないからこそ感じる何かからも目を逸らさないように、少しだけ考えておこう。

 

そこに笑っている命の火が、僕がこの世からいなくなってからもずっと灯り続けるように、こころから願おう。

 

本来人の命や人生は、他人がそんな期待をするべきものではないはずだ。だけど、よっちゃんに触れられない場所から彼のことを想うとき、僕はそういう気持ちにならずにはいられない。