高層階の掃き出し窓

昔のことだけど、車の販売をしていた頃があった。

 

その日私は、必要な書類をもらうために、街中のとある公営住宅の高層階を訪ねた。そこは公営だから、5階までは階段を上がり、そこからエレベータを(たぶん)使って、目的の階まで行った。

 

そのお宅は、今でいう2DKに近くて、入ってすぐに台所兼食堂、その奥は左右に分かれた畳敷きの部屋があったと記憶している。

 

初老の夫婦が住んでいた。車を買ってくれたのは夫の方だった。左側の畳敷きの部屋に片膝を立てて小さく座っていたその初老の男性の前に座った。小さなちゃぶ台のようなものがあっただろうか。トルコのチャイを飲むようなグラス(写真でしか見たことない)に入れられた、麦茶か緑茶だかを出してくれた。

 

地べたというか畳の上に直接座っている。ほとんどすべてのものが、なにも介さずに畳の上に置いてある。その初老の夫も畳の上にぺちゃんと座っている。私も同じ目線で座る。すべてが落ち着いた筈だった。

 

なのになんだろう、この落ち着かない感じは。

などと、低い目線をそこら中に動かしていたら、違和感に思い当たった。

目線の先、しかも畳が途切れた先にはすぐに空が(実際には、空と遠く見下ろす街並みが)あったのだ。

 

うなじの下の方が、ぐうと締め付けられた。

ふとももの付け根の内側が、ぎぎぎい、と縮み上がった。

その空と畳の境界線あたりには、小さな植木鉢を並べるとその重みで落ちてしまいそうな手すりというか枠というか、バルコニーのようなものが誂えられていた。しかし、それは本当に片手をかけて身を乗り出そうものなら、それごと地面に落下してしまいそうな代物だった。しかもガラス窓の下側のサッシは、畳の表面よりも低い。なのでここではその存在を無視し、便宜上、畳と空が直結していたことにする。

 

なんて設計だ。

あっちへ転がったものはすべて落ちる。

あっちへ這っていった赤ちゃんも落ちる。

寝相が悪くてあっちへ動いても落ちる。

高所恐怖症の私からすれば、たとえ締まっていた窓ガラスが何かの拍子に割れても落ちる。

落ちる。

 

地平線の向こうにあるその恐怖の断崖絶壁が気になって仕方なくて、私はその時気もそぞろ、ちゃんと書類にサインをもらったりして帰ったのか、今となっては全く覚えていない。

 

今印象に残っているのは、ただ畳の終わった先に、ぽっかりと高層住宅の外の空が広がっていたということと、その空恐ろしさだけだ。

 

それは当時、その建物にとって付加価値のようなものだったのかもしれない。

 

私はその後、様々な仕事と住居、恋人や人間関係を経て、今こうして日記のようなものを書いている。

 

昨夜、西加奈子の「美しい人」を読んだ。