土曜日の朝の孤独感

 

日本の大手企業で上まで上り詰める人やそうなりたいと努力している人たちのことを、考えてみた。そこに何があるのかを。

毎日が社内営業。常に結果を出さなければならない。常に民主的でなければならない。家族は二の次とまではいかないが、犠牲にする場面も多いだろう。何もかも芝居がかった偽善に見える時も、舞台を降りられない。後ろ指は指されてなんぼ。

救いようのないゼネラリストか、空疎な人。そうじゃなければ、何代にもわたっての野望や遺恨を、その遺伝子の運び屋としての生涯をかけて終結させようとしている人。そんな人でないとできない。大量生産商品のテレビコマーシャルのように無害な高学歴ブロイラーもいるが、ここでは論じない。

 

ここで話題が変わるが、なんの枠組みも持たない(信じない)僕は、年の瀬を迎えてもそわそわしないし、一年の計が元旦にあるなんて鼻息荒くしないし、いつも何かに守られているという気もしない。神にも仏にも頼らないしありがたく思ったこともない。そもそも存在を信じていない。仕事で一区切りを迎えても胸に迫る思いもなければ、あらあたな一歩を踏みだすという身の引き締まる思いもしない。

始まりも終わりもない、生まれ落ちた時に始まって、地に伏す時に終わる、ただの遺伝子の運び屋の一生。

それはそうだろう。人生の節目なんて、人間が便宜上あったほうが良いと後から付けたものなのだから。

やはり、全てが偽善的で後付け的で、自分の足元をゆらぎのないものにする心の土台のようなものは、まだ僕にはない。